みの・ひだ情報
日本まん真ん中Heart of japan Gifu Spring 1997 Vol.16


ここでは(財)岐阜県広報センター発行の季刊誌「みの・ひだ情報 日本まん真ん中」で紹介された有平糖の記事をご紹介いたします。
この記事が掲載されることによって菓子文化における「信長有平糖」の価値が、多くの方に知っていただけました。



◆特集◆◆  GIFU  知る・結ぶ・伝える  ◆◆◆◆
独走と伝統の味・まん真ん中の菓子

美濃の国を中心に日本の歴史が動いた時代
せんごくの風雲児・織田信長は
いくつも斬新な手法で天下布武をめざしました。
不幸にも、その志しを目前にして信長は本能寺に倒れますが
彼の先見性は、400年を経た現在もさまざまな形で息づいています。
その一つが、意外にもお菓子。
若き日の信長の燃えるような野望が、日本菓子のルーツに込められているのです。
そして、日本まん真ん中・岐阜県の菓子は信長の精神をどこよりも色濃く受け継ぎ
独創と伝統に満ちあふれた味を誇っています。

信長と有平糖

フロイスが献上した 魅惑の南蛮菓子
異国の宣教師が、時の権力者にもたらした贈り物の中で
ひときわ目をひいたのが、色とりどりの南蛮菓子
それは当時の日本人が知らなかった未知の味でした

「年齢はいくつか、ポルトガルとインドから日本に来て、どのくらいになるか。どれだけの期間勉強したのか。親族はポルトガルで再び汝と会いたくおもっているか。どれくらいの道のりがあるのか‥‥」
これは、永禄12年(1569)織田信長が宣教しルイス・フロイスにはじめて引見し、対談した時に質問した内容。日本と言う小さな格子窓から世界を夢見ていた、いかにも信長らしい、旺盛な好奇心がうかがえます。
「南蛮からきたフロイスという宣教師が、京都から追放され困っている」。こんな話を家臣の和田惟政から伝え聞いたのが、信長とフロイスの劇的な出会いの始まりでした。岐阜城写真
 16世紀の半ば近くになり、ポルトガル人、スペイン人、そしてイタリア人など、遠く離れたヨーロッパ各国から、多くの外国人が日本にやってきました。ルイス・フロイスも、こうした一人。しかし、彼が他の外国人と違ったのは、当時の日本で絶大な権力を振るっった信長と18回以上も謁見し、彼の考え方や人生そのものに少なからず影響を与えたこと。そして、後世に史実を伝える文献が残るほど、文才があったことでしょう。ちなみに、信長と宣教師たちは、解っているだけで31回も会っています。その内訳は京都で15回、安土で12回、そして、岐阜で4回といわれています。
 信長を訪れた宣教師たちは、さまざまな贈り物を献上しました。孔雀の尾、ビロードの洋服や帽子、インドの藤杖、ヨーロッパの鏡‥‥、数え上げたらきりがありません。こうした”異国の宝物”の大半は、当然のことながら、驚きの目をもって迎え入れられました。そして、フロイスの献上品の中にも、信長が思わず表情をゆるめるほど感銘を与えた品物がありました。透明なフラスコ瓶の中に、赤や青、黄色など、色とりどりが散らばった小さな「金平糖」。そして、丸い棒状で、いく筋もの色が入った「有平糖」です。どちらも、硬くて、甘くて、色鮮やか。誰もが未だかつて見たこともない砂糖がしでした。その不思議な味と形は、のぶながはもとより、多くの武士たちを一瞬で魅了したといわれています。
 「金平糖」は、ケシの実の芯に糖蜜をかけて固めた砂糖菓子。コロコロと回しながらつくるため、かわいらしい角状の突起ができるのが特徴です。ポルトガル語のconfeitos(複数・コンヘイトス)が、その名の由来とされています。皇室では今でも常に祝いの品とされ、幕末の英雄・坂本竜馬が常に持ち歩き、口にしていたともいわれています。
 「有平糖」は、ポルトガル語のalfeloa(アルフェロア)、つまり砂糖菓子の意。もともとは単純な筒型でしたが、文化・文政年間以降(19世紀初期)いろいろな形に細工されるようになりました。今日でも、桃の節供の飾り菓子や茶席の添え菓子、祝儀菓子として珍重されています。

 「金平糖も「有平糖」も、今では懐かしい素朴な飴菓子として庶民に親しまれています。けれども、砂糖が大変高価だった信長の時代には、相当な権力者かお金持ちでもない限り、手に入れることは不可能でした。そもそも、日本のお菓子のルーツをひもとくと、それは砂糖の歴史そのものと重なり合う部分が多いのです。


◆硬質系の色と形と味、有平糖の甘さは戦国武将をとりこにした。



 

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独走と伝統の味・まん真ん中の菓子

上品な異国の甘味 砂糖が握る菓子の歴史
南蛮菓子の差材「砂糖」は、黄金にも勝る貴重品でした
しかし、一度でも口にしたら忘れられない魅力の味は、
長い年月を経て、人々の間に溶け込んでいきました。

 わが国に砂糖が初めて伝えられたのは8世紀半ば。唐の僧・鑑真が黒砂糖をもたらしたといわれています。また、奈良・正倉院宝物の薬剤の中にも蔗糖の名があることから、なら時代の日本には、ごくわずかながら砂糖が存在したことになります。その後の平安時代には、宋との貿易によって細々と取り引きされていたようです。
 時代は下がって室町期になると、明との貿易が盛んになり、安土・桃山時代も、南蛮船との朱印船貿易によって、砂糖の輸入は急激に増えます。羊羹や饅頭、飴、餅など、砂糖を使った菓子が文献に記され始めるのもこのころ。しかし、増えたとはいっても、現在とは比較にならないほど少ないものでした。
 江戸時代になると、鎖国の影響で、貿易は極端に制限されました。もちろん、庶民にとって砂糖は高嶺の花。当時の砂糖100斤(60kg)当たりの輸入元値は、氷砂糖が銀約36匁、白砂糖が約60匁、黒砂糖が約50匁でした。同時代の大工さんの日当が食事代込みで銀5〜6匁だったことから、現在の価値に換算すると、白砂糖100gで約2000円。元値でこれだけですから、実際の売り値はその数倍にも達したことでしょう。
 高価な砂糖が、どうにか庶民にも手の届くようになったのは幕末から明治にかけて。日本各地でサトウキビが栽培され始め、開国によって輸入量も増加したためです。岐阜県内で砂糖を豊富に使うお菓子が生まれだしたのも、ちょうどそのころから。戦国の風雲児・信長とフロイスが出会い、南蛮菓子をつまみながら、異国の物語に花を咲かせた時代から、実に300年。お菓子の革命児・砂糖は、ようやく日本の菓子と出会い、さまざまな花を咲かせ始めたのです。
「金平糖」と「有平糖」に始まった、近世日本菓子のルーツ、お分かりいただけたでしょうか。「金平糖」は知っていても「有平糖」は知らない‥‥。見たことも聞いたことも、味わったこともない‥‥。得に若い世代のみなさんは、そう思われるに違いありません。でも、ご近所を見回して下さい。意外なところで「有平糖」が、日常生活に生きていることがわかるでしょう。
 例えば、理髪店でよく見る赤、青、白のらせん看板は、その名も「有平棒」。また、歌舞伎役者が顔に描く華麗な隈取りのひとつを「有平隈」と呼ぶのです。それよりも、今は少なくなった駄菓子やさんや門前町の土産物やで売られている、昔懐かしい飴玉。あれが「有平糖」だと知ったら、多くのみなさんがもっと親近感を覚えることでしょう。